アニメと観光に関して
★★★☆
- 観光と「物語」について
- アニメツーリズムについて
- オタクコンテンツ上げのために他を下げるな。
これに関して自分の意見を。まずどちらかと言えば田舎出身で地方民の意見としては
「ばーか!今どき「田植えができます」くらいじゃ人なんてこねーのは都会モンに言われんでも田舎の俺らは分かってよ!で、少ない予算と人手でない知恵絞ってあれこれやってんだよ!まあ、都会の人からしたら田舎者の浅知恵かもしれんけどね。てか、お前らが鼻で笑う「オーガニック」だろうが「インスタ映え」「パワースポット」だろうが、「皇室ネタ」だろうが利用できるもんは全部利用するよ!」
では以下少々上品に。
そもそも「旅行とは?」まで風呂敷を広げると話が長くなりすぎるので。
物語を追体験するための旅行として最古の物はかのアレクサンドロス3世が東方遠征の途中でトロイに立ち寄りアキレウス*1の墓を詣でたとプルタルコスが伝えています*2
時代が下って「ここがジャン・ヴァルジャンがいた町並みか」あるいは「アン王女が座ってジェラードを食べた階段か」と物語を追体験する観光はあったでしょう。
ただ、観光って物語の追体験というより、日常できない興味深い体験を求めてですよね?気候や自然、文化・歴史的な建造物や町並み、美術館や博物館あるいは遊園地。食べ物はもちろん、その地元の人が話す言語なども含まれるでしょう。物語の追体験はそういう体験の一部なんではないでしょうか?
こういうランキングは色々な集計方法があるので一概には言えませんが、私はバンコクが舞台のフィクションはすぐに浮かびませんし*3、ドバイも、ミッション・インポッシブルのどれかで出てきたっけ?くらいです。
と言うか、一般的に観光の動機として物語の追体験はそこまで重要ではあっても主要とまでは言えない気がします。
でアニメと観光ですが。
まあこの2つは最低限抑えておいて。というかこれで十分な気もしますが私見を。ちなみにオタクの間では失敗例とされる事も多い鴨川は岡本健氏は成功例としています。
私の地元は「農業体験」でそれなりに成功しています。行ってる法人の金額の規模は年、数千万円程度で、経済効果は億は越えてるでしょうが、10億には届かないくらいかもしれません。でも、そのおかげで本来なら耕作放棄され荒れるに任されるはずだった農地が毎年作物を植え収穫できています。「経済を回しているオタク」からしたら鼻で笑うような額と効果もしれませんが、そういうの馬鹿にするのやめませんか?
自分の好きなコンテンツを上げるために他のコンテンツを下げるってオタクコミュニティでは嫌わてますよね?なんで、それをオタクコンテンツと非オタクコンテツだとやっちゃうんですか?
沼津や大洗は元々観光地でオタクコンテンツの影響でポジティブな影響があるのは確かですがそれが過半数などを占めるわけではなく、あくまで「農業体験」など元からある地元の観光資源目当ての観光客数の方が多いです。
だから、オタクコンテンツに特権的な何かを認める気にはなれません。
観光において主役は地元であり、コラボはやりかたによっては私は喜びますが、努力が足りない、やり方が悪いと批判するのは作品の価値を貶めるような物でもなければ私はしません。
そういう点では艦これはファンも含め地元へのリスペクトは感じます。地元へのリスペクトがあれば「農業体験」を笑うような事もないでしょう。
オタクコンテンツは、様々なコンテンツがある中の一つに過ぎない。ってそんなに認めるのが難しいですかね?
夜郎自大の実例その他
さて、何かよく分からない反応があったのでお返事と言うか私のコメントを。
tetora2 "京都やパリローマはアニメ関係ない" 京アニ目当てにどんだけ外国人が来てるか知らんのか。井上雄彦が描いた絵が奉納、北野天満宮の三十六画仙、SAOエクスクロニクル。パリローマも映画のファンが多数来てる。
アニメが一定の役割を持つのは認めるが、京都やパリローマなどはアニメ作品がなくとも偉大な観光都市であるという趣旨ですが、 id:tetora2 さんはどうもよく理解されてないみたいです。
突っ込みどころとしては井上雄彦は東本願寺で親鸞の屏風絵を「制作」していますが、「奉納」はしていません。伊勢神宮のと混じってません?
北野天満宮の三十六画仙は初音ミクですけど、個人的にには初音ミクをアニメカテゴリーに入れてしまうのはオタクと言うより、詳しくない「一般人」ぽいですね。まあ私は非オタクの人がその様に誤解していてもべつに責めませんが。
というかそれ挙げるくらいなら『HELLO WORLD』を挙げてあげて!「京都」が舞台で、京都タワーがめっちゃフィーチャーされてるよ!
で、京アニ目当てで外国人がすごく来てるらしいので、実際どうなのか見てみましょう。
沼津とかだとラブライブ!サンシャイン!!に言及してたりしますが、まったく言及されてませんね。
では統計も見てみましょう。
来訪動機ならびに次回訪問時に見たい・したいことで「マンガ,アニメなどのポップカルチャー」日本人だと2%程度、海外でも1割程度ですね。増加傾向にあるのは確かですが、割合としてはその程度です。
まあ、京都は観光客数が5000万とかなので、割合が少なくても実数はそれなりでしょうが、あくまでワンオブゼムなのは確かですね。
最後の「パリローマも映画のファンが多数来てる。」も意味がいまいちわかりません。別に私は「物語」が観光資源足りうることは認めてますが、アニメが特権的な地位を持つというのを否定したにすぎません。なので、映画が「物語」として観光資源足りうることは言うまでもない前提だと思ってましたが、分かりにくかったですかね?
tanahata 「京都やパリやローマにはアニメがなくても人が来る」とトップコメがありますが、どれもアニメに代表される「物語の舞台」そのものやん。金閣寺は金色の寺ではないし、エッフェル塔はただの鉄塔ではない。
id:tanahata さんも私が観光資源としての「物語」を否定していると解釈されてるようです。しかしオタクである私としてもさすがに「アニメに代表される「物語の舞台」」はいくらなんでも大げさなのではないかと思います。
the_sun_also_rises氏の法律的知識
id:the_sun_also_rises 氏はどうもあまり法律には明るくないのではないか?と感じます。具体的には
https://b.hatena.ne.jp/entry/4681424044732493346/comment/the_sun_also_rises
the_sun_also_rises 「表現の自由」は憲法20条で「検閲の禁止」は21条で守られた重要な人権。ガイドラインを自主的に作るのはよいが強制はできない。表現の規制は法によらねばできずこの議論は立法府でしか決着はつかない。選挙で争おう
まず一般に憲法20条は信教の自由を定めたもので、21条前段1項*1が表現の自由、21条後段2項が検閲の禁止です。タイプミスとかの問題ではこうは間違わないと思います。
また、ある表現の是非を議論することはおよそ表現の自由の範囲ないなのでなぜ「表現の規制」となるか根拠が不明です。
また、実際に「のうりん」以降の女性のイメージがフェミニストの批判にさらされてどうなったか?そして、赤十字が独自のガイドラインを導入したという報に触れても「選挙で争おう」とか主張するのは、モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル に出てくる黒騎士染みたユーモアなんでしょうか?
https://b.hatena.ne.jp/entry/4682314143634365858/comment/the_sun_also_rises
the_sun_also_rises id:fufuvalso 検疫法読んだか?まず読め→http://bit.ly/2wszhWD コロナウイルスを検疫法3条3項に追加したのは政令。法改正は必要ない。だからすぐにできた。しかし次から次へ調べもしない脊髄反射バカが現れるね。
リンク先を見ればわかりますが「検疫法3条3項」ではなく「検疫法2条3項*2号」の間違いです。他人に法律を読めとか、「脊髄反射バカ」など強い言葉で非難しておいて、条文を間違えていたら、私なら恥ずかしくてのたうち回ることでしょうが、正直なぜこんなに自信満々に間違えられるのか心底なぞです。
*1:id:Arecolleさんの指摘により間違いに気づきました
*2:上記と同じ
the_sun_also_rises氏の奇妙な主張
★★★★★
- ゴルディオンハンマー!発動承認!!
- セーフティデバイス、リリーブ!!
- 光になれぇぇぇ!
さて、一応私としては最初はジャブを放って、それでも効かないというか自分が致命傷を負ってるのに気づかない人には全力で、という方針です。
さてまず id:the_sun_also_rises 氏の挙げている文章ですが、ちゃんと読めてません。これは175条自体が不明確なため、判例などからわいせつ性を具体化しようと試みてる文章です。よって、この文章は175条が明確ではないことをより強める、あるいは175条が「明確に言語化」されていない事を前提とした文章です。
というか法律家が刑法の各論を説明するなら、まず条文を解釈し、その後判例を示すという通常の形でないことからも、それは明らかですし、著者は現行のわいせつ規制に反対の立場なのも明確です。
よって、 the_sun_also_rises 氏は根拠を述べられないどころか、なぜか自分の説に対して反証となる文章を紹介しているという状況です。
ここで、「明確に言語化」というよく分からない定義を the_sun_also_rises 氏は提唱していますが、刑法は憲法31条により刑法には「明確性の原則」が求められます。
31条は罪刑法定主義の条文ですが、定められた法文が不明確で名宛人である国民などにとって、何が法律に違反し、あるいは違反しないのか不明確ではいけないというのは常識的に考えても頷けます。
そして、判例では条文自体(判例ではなく)から「通常の判断能力を有する一般人の理解において,具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読み取れるかどうか」というのが明確性があるかないかの基準にしています。よって、判例から明確化されているという主張は175条を明確性の観点から合憲とする立場からは取れません。 the_sun_also_rises 氏はまったくご存知ないでしょうが175条を真正面から問うた事例ではありませんがとある判例では「猥褻性の概念は刑法 175 条の規定の解釈に関する判例の蓄積により明確化されており」とあるので、この判決が175条に関する判例とどのような関係にあるかは微妙ですが、 the_sun_also_rises 氏の主張自体が175条の違憲を主張しているとまではいいませんが、やはり判例とは乖離していると言わざるを得ません。
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/599/005599_hanrei.pdf
つまり the_sun_also_rises 氏は前半部分は何も根拠がないどころか自身の言説を批判する立場の文書をなぜか根拠として持ち出し、後半もあくまで175条自体と私の基準などを比較しないといけないのに、判例を持ち出してきている時点で反論にも反証にもなっておらず、根拠も一切示さず自説が正しいと主張しているにすぎません。
もちろん私は175条は明確性の原則違反以前に違憲であるという立場ですが、それなりに明確性の原則についても議論できます。しかし the_sun_also_rises 氏は議論の資格があることさえ一切示せず、正直実体的な議論をする以前の問題です。
「なお件のポスターは明確にわいせつ物でない」はもういちいち突っ込むのもアレですが、私は明確性の問題で175条を持ち出しただけで、誰も例のポスターが175条違反だと言ってないのにこんな主張をするのは摩訶不思議です。
集団的倫理非難可能性
★★★★★
- 倫理的非難をするならその根拠をしめすべき
- 献血ボイコット等は倫理的に非難できるのか
- そもそもある集団を倫理的非難可能なのか?
人として
★★★☆☆
- 他者に具体的な表現行為を禁止するより強制するほうがより表現の自由の深刻な侵害です
- 思想信条に反する発言を文言を指定し発言させることは許されるのか
- 私は怒ってます
さて、一般に表現の自由である表現をするな、と言うより、ある表現を強制する方が表現の自由の侵害は甚だしいと言われています。
単にキリスト教の祭儀を行うなより踏み絵させる方が、より侵害は甚だしいということは常識的にも理解可能かと思います。
で、擁護派の立場からするとこれは manatus さんが私の表現規制を試みた事例となるんでしょうが、もしこれが問題でないなら批判者が日赤を批判していた事が問題かの違いを説明してくれると正直助かります。
で本題です。
id:manatus 氏のブコメについて検討します。
およそ、本人の思想信条に反する発言を強要するのは法的にも倫理的にも許されないことです。
くらいでしょうか?1は法的にも倫理的にも問題はないかと思いますが、2は法的にはともかく倫理的にはかなりあかん感じがします。3はそもそも奴隷という制度自体が法的にも倫理的にも駄目なので論外ですかね。4に関しては事前に包括的な合意があったと言えますが、まあそれでも無制限に認められるわけではないと思います。
で私は manatus さんとは1から4すべてが当てはまらないと思いますが、 manatus さんがどうしてこの様な発言をしたのか本当に不思議です。
親に「テストで良い点取れなかったら、持ってるフィギュアや漫画を自分の手で壊せ」と要求されるより2段階も3段階も悪いと個人的には感じます。
「自己実現、労働さいこー!」と言うよりも、古代ギリシア人がそうだったように仕事などしなくていいならしない方がいいというのが私の立場で、内心「面倒だなー」「嫌だなー」など思っていても社交辞令くらいは使いますが、思想信条に反する発言を求められた事もありませんし、具体的に文言を指定されたこともありません。
おそらく manatus さんは、 manatus さんにとって不可能だと思えるような事を要求し、それが果たされなかったから特定の発言をしろと要求するのが、私の人格を毀損し、その尊厳を踏みにじる行為だとは思っていなかったのかもしれませんが、私にはポーカーでベットする前に自分だけ手札を開示せよと要求されたような気分です。
はっきり言いますね。
私やその記事発言に大して、揶揄や嘲笑の類の発言はそれなりにあるのを把握してますが、「軽蔑に値する」と感じた発言は manatus さんのこのブコメだけです。
謝罪はべつにいりません。仮に謝罪しても私はそれについて一切論評も言及もしません。もし、あなたがこの件に関して弁明、正当化の類を始めたら非表示にして終わりです。あなたの真意などには私は興味はありませんし、もしこのブコメを誰かによって強制されたものだったとしても、発言自体が「軽蔑に値する」点は何も変わりません。
また、他の方も含めこの様な要求は非表示にされると想定してください。
無論、あなたが私と真摯に議論や意見交換をしたいというなら私は拒みません。まずあなたが、あなたにとっての「社会的によいこと」を定義し、それは何により根拠付けられるのか、それと「私にとって気分のよいこと」はどういう関係になるのか、そこあたりを示してくれたら喜んで議論に応じますよ。
議論の将棋盤返し
★★★★★
- トートロジーとは何か?
- 私が提示した基準の論理関係
- 議論の将棋盤返しとその問題点
どうしても長くなってしまうので、個人的おすすめ度と内容を3行でまとめたものを冒頭に書くことにしてみました。
stand_up1973 「性的とはその状況において許容されないくらい性的であるといういみです」このトートロジーに納得できる理性がどういうものか知りたい。
さて、個人的にトートロジーをネガティブな意味に使うのはあまり好きではありませんがどうも、id:stand_up1973 氏のこの文章単独では何を言いたいのかよくわかりません。
トートロジーとは同じ言葉という原義が指し示すように、同語もしくは同義語を繰り返すことです。
- 私は私だ
- ヒトは人間だ
- dogは犬だ
皆トートロジーです。2に関しては生物学や医学の分野では人間の事をヒトと言う事を示しています。3は、まあ説明いらないですよね。1も、たとえば久しぶりにあった人間に見た目が違っているので「本当に誰々なのか?」と問われた際に答えるなど、「私」を強調したい時などに使えるでしょう。
よってトートロジーは無意味であるというのはちょっと首肯しかねます。
では
「殺人とは人を殺すことである」
これはトートロジーでしょうか?もちろん違いますが、日本語だとちょっとわかりにくいかもしれませんので英語にすると。
「Murder is the killing of a person」
となりトートロジーではない事は明白かと思います。
つまり論理的には「AとはBをCすることである」となります。(故意要件は議論を煩雑にするので省いてます)これはいかなる意味でもトートロジーではないと言えるでしょう。
そうするとある行為が殺人といえるかはBやC、つまり人とは何か?殺すとは何か?という問題になります。
人とは何か?と言うと哲学的な趣がありますが、この場合はプラグマティックで、たとえば堕胎と殺人を分けるために胎児はいつから出生して殺人といえるのか?などが問題になります。そして、殺すだと、例えば道端に倒れている人がいて、容易に救護や救急車を呼べるのに何もしないで立ち去り倒れていた人が死んだ場合などがあげられます。
こうやって論理的に要素に分解すると、どこが論点か明確になり議論に有用です。
そして私の基準「性的とはその状況において許容されないくらい性的であるといういみです」は「A(性的)とはB(その状況)でC(許容されないくらい性的)である」となります。Cは「許容されない」と「性的」の2要素が含まれてますが、性的は人を描いた図像なら程度の差こそあれ含まれているものであるという私の説を前提とすれば結局一要素になります。
なお論理学でトートロジーと言うと恒常式など数学の命題の様に常に成り立つ式と言う意味でも使われますが、その様な用法でないことも明白でしょう。
あと、刑法で言う事実要件と規範要件で、私の基準には規範要件が含んでいると言う指摘かもしれませんが、およそこの手の問題で規範要件を含むなと言う方が無理な相談です。
さてこれで、可能性はトートロジーの意味を誤認誤解している。または私が提示した条件の論理が読み取れなかった、あるいはその両方と結論さぜるを得ません。
ここで疑問点があります。擁護派は「いかなる状況においてもどの様な性的表現が許される」つまり、例示としては小学校のポスターとして、コミックLOなら格別通常の成人指定されているような漫画雑誌の表紙を使っても問題ない、あるいはそれこそ日赤がその様な漫画の性的な行為の部分の図像を是とする立場、ではないと思います。
つまり、なんらかの形で是非を判断する基準はあるはずです。それを私が提示した基準に準拠して議論してもいいですし、もしもっとよい基準があるならそれを提示すればいいのですが、なぜかこういう議論の将棋盤返しとでも言うべき、そもそも議論の土俵にも上がらない事例が散見されます。
普通なら将棋盤返しをした人が不戦敗になるはずが、根拠は不明ですが私の「理性」になんらかの問題があると指摘し、将棋盤返しをした方ではなくされた方に問題があると主張しているかと思えます。
これは、そもそも議論を拒否する態度であり、言論の自由を空疎化する行為ではないかと危惧します。他所ですが擁護派が「端的な質問をされたのにまともに答えてくれないではぐらかす」というのも見かけました。
と、ここまで書けばそれがまさに現実の政治の舞台で行われている事を想起する人も多いでしょう。どちらが卵でどちらが鶏かと言う問題ではなく相互に影響しあっており、アメリカのトランプ現象でも見られるように日本独自の問題でもない可能性があります。もしかしたら、言論の自由の価値は私が想像しているより、多くの箇所で機能不全を起こしているのかもしれません。